↑の感想ではラメステの劇中歌では「その瞳に」が好きと書いたけど、公演終了後に配信された劇中歌インスト集を聴いていたら、ライとコノエの「目醒め」「絆、呼応す」がどちらも変拍子(3/4・4/4・2/4拍子、5拍子)でかっこよくて好きになった。「その瞳に」は歌唱シーンというよりインストが流れていたシーン(ライがぐずぐずになっているところ)が好きだった。でも今「その瞳に」インスト聴いていたら泣けてきたからやっぱりこの曲のやさしさが好きだ。
原作を進めていて、ラメステでGOODENDを観たからBADENDを優先的に回収している。今はライルートでリークスとの最終決戦が始まったところである。
あらましを知っているとはいえ、指輪を取りに火楼に戻り、その姿にもう自分の故郷はなくなったのだとコノエが涙するシーンで本当に辛くなってしまい、少しプレイのペースが落ちていた。
ネット上の自分と、この自分とはレイヤーが別の場所にあって、それをわざわざ重ねることは本当はしなくていいとわかっているし、ためらいもあるんだけど、ラメステを観た時からずっと自分を作品に重ねてしまってるところがあって、それはわたしが故郷喪失という感覚におぼえがあることだ。
わたしは2011年の東日本大震災で避難生活を経験している。今は地元にも立ち入ることは可能になっていて家族も元気に生活しているし、避難生活も最初こそ転々としていたものの血縁者を頼ることができたし、文字通りの故郷喪失者というわけではまったくなくて、幸運なわたしがそれを自認することはおこがましくて、それによって見えなくされてしまう人がいることもわかっているけど、でもコノエにエンパシーをおぼえずにはいられなかった。
もしかしたらこの苦しさは根本的には「帰ることができる場所がなくなった」という感覚とは関係ないもので、災害に対する長期的なストレスかもしれない。でもわたしにとっての観劇とはそのものが(人間のむきだしの感情をぶつけられるという)ストレス体験と(カタルシスなどによる)ケア行為だとドマステの時思ったし、共感がそもそも防衛機制かもしれないし……とりあえず自分をまだ蝕んでいる巨大なストレス要因とは関係がありそうだ。今年は1月1日から能登半島地震が起きて、そんな中でのラメステ上演。
だからコノエにとってのライが・アサトが・バルドがコノエの居場所になるというストーリーに、わたしとコノエは違うことを突きつけられるような気持ちになる。どこまでも勝手だが……。
好きな台詞発表ドラゴンが 好きな台詞を発表します
「どこだろうか。知らないところって言ったら、怖いかい? まるで、死後の世界について考える時のように」
春日武彦著『恐怖の正体 トラウマ・恐怖症からホラーまで』で「死を擬人化してみるならば、それは妙にフレンドリーで弁舌爽やかな詐欺師みたいな人物のような気がする。」*1と言われていたけど、それはまさにフラウドなのではないかと思う。
死はわたしたちの日常に遍在している。でも日々の生活でそれは壁紙の幾何学模様程度の意味しか備えていない。それなのに死はある日突然不可解さと臆面の無さの双方を携えて目の前に立ちはだかるのだ。*2
死後の世界について考える時、誰もがその永遠の前に立ち尽くしてしまう。死は唐突だ。そして誰もがいつか到達するのに絶対に手が届かないさまは翻って神秘的で、聖なる、 畏るもののようでもある。このたとえがぶっこまれる急さと詩的さが死のまとうイメージと重なって、フラウドの台詞はまさに死の擬人化みたいでときめいた。
さっきまで災害のグリーフみたいなことを言っていたのにアレだけど、わたしはフィクションにおいて死が「あるもの」として描写される作品が好きだ。いくつか挙げると、
- 梶井基次郎「冬の日」
- 横光利一「春は馬車に乗って」
- 横光利一「花園の思想」
- Friendly lab
- あんさんぶるスターズ!「決別!思い出と喧嘩祭り」
- 映画『日本春歌考』
とかである。
ステンドグラスがLamentoっぽい店に行った。君沢ユウキさんがゲストのイベントに行ったのでラゼル。