トロピカル墓場

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舞台『刀剣乱舞』禺伝 矛盾源氏物語 感想

 舞台『刀剣乱舞』のオールフィメール公演。円盤が届いてから改めてよい観劇体験だったと感じ入っているので、観劇時のことも思い出しながら感想あるいは感想ではないなにかです。ネタバレに配慮していません。

 

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西暦2205年。

歴史の改変を目論む「歴史修正主義者(れきししゅうせいしゅぎしゃ)」によって過去への攻撃が始まった。
時の政府は「審神者(さにわ)」なるものたちに歴史の守護を命じる。
その審神者の物の心を励起(れいき)する力によって生み出された「刀剣男士(とうけんだんし)」たちは、
さだめられた歴史を守る戦いへと身を投じるのだった。

時は、四百年続いた平安時代のうち寛弘の頃。平安京には、歌仙兼定を隊長とした、大倶利伽羅一文字則宗山鳥毛、姫鶴一文字、南泉一文字の六振りが出陣していた。
世界最古の長編小説『源氏物語』の作者として知られる紫式部の周辺歴史に異常が見られたためだ。

刀剣男士たちが紫式部を捜して平安京を偵察していると、書物を抱えた女が怪しげな集団に襲われているところに出くわす。正体不明の敵に対して、「まずは出方を見よう」と作戦を指示する歌仙兼定であったが、大倶利伽羅はその作戦を無視して敵に斬り込んでいく。

戦いの末に救い出した女は、自分を「小少将の君」と名乗る。紫式部と親しい彼女の話によれば、この時代の平安京が『源氏物語』という創作の世界に覆われてしまっているらしい。

小少将の君に導かれて宮中の調査を開始した歌仙兼定たちは、歴史上には実在しない光源氏と貴族たちが恋愛談義に花を咲かせる場面を、目撃する。それは『源氏物語』の中でも有名な「雨夜の品定め」の場面であった。

いつの時代にも実在するはずのない出来事を目の当たりにした歌仙兼定たちは、自分たちが置かれている状況を理解する。ここは、「歴史」と「物語」が反転した世界だった。

 

 6/8拍子の曲に合わせたオープニングのダンスが非常に美麗で、特に源氏物語の登場人物たちの十二単の裾が床を擦る音に、この世のものじゃないみたいに魅入られました。舞台を覆う大きくて薄い布をはじめ、筆文字の原文が演出として散りばめられる舞台の美しさについて語らずにはいられませんが、わたしは六条御息所の登場あたりから、『BOOK』を彷彿とさせる展開に気づいてソワソワしていました。

 『BOOK』は、2007年と2011年に上演された末満健一さんの舞台作品です。

自分が物語の登場人物を演じていることに気づいたキャラクターたちが、自分が演じる人物が物語に登場する「本編」ではない時間=「行間」で暗躍し、物語を自分たちの思い通りに改竄しようと奔走する──というと、『BOOK』も禺伝も同じストーリーをベースにしています。劇作家の過去作とのつながりを指摘すると、オタク語彙の「履修」や過剰な考察カルチャー的なやかましさがあるかもしれないですが、「刀ステ」シリーズ、また本作だけ観てもおもしろさに問題はないことをフォローしたい。しかしわたしは、『BOOK』以外にも、禺伝に末満さんの過去作から連綿と続くものと変化したものを感じずにはいられませんでした。

 変化を感じたのは、女性キャラクターの描き方です。末満さんの作品では、女性が望まない妊娠をしたり、出産によってこの世界に業を生み出したりする存在として描写されるものを(少なくとも自分の体験では)多く見てきました。身ごもっている子が殺人鬼となる未来を予告され、子の心臓を止めるスイッチを押すか押さないかを母親役の俳優に公演ごとに委ねる『MOTHER』、因果や呪いが世代を渡って受け継がれ、作中で出産を描写されることも多いTRUMPシリーズなどが挙げられます。禺伝でそれらとの違いを感じたのは、第二部で第九帖から第六帖に逆行*1した葵上が、光源氏と関係を持った女性キャラクターたちとともに蜂起を起こすシーンです。女性たちは光源氏に傷つけられた経験で連帯し、彼を手にかける覚悟を持って自らの物語に抵抗します。主人公・光源氏の物語を彩るためだけに作者から背負わされた人生に抗うという「モブキャラの反乱」は『BOOK』的ですが、女性であるがゆえに抱えた痛みでつながり共闘するというフェミニズム的な視点も感じました。

 SFに、現実の問題を作中のフィクション世界で描写することでその問題を相対化するという手法がありますが、『源氏物語』および平安時代における女性という性別の扱いを描写した本作をその視座で読み解くことも可能です。「雨夜の品定め」のホモソーシャル談義は刀剣男士たちによって各々の言葉で否定されますが、作中世界は現代日本の反射ともとれます。

 多層的とか重層的という言葉が本当にふさわしくて、女性という性別の描き方ひとつとってもここまでのように様々だけど、嘘と現実の対立をメタフィクションで語ることにも多くの意味を持たせ、そのすべてが過不足なく機能しているように思わせるストーリーは、とても極まっていると思います。

 物語は嘘で、嘘は罪、罪は地獄、という不妄語戒の価値観が第二部からキーになってきます。

「物語は、どうして人の死や悲しみを必要とするんだろう」

葵上の台詞は、ニュアンスを変えられて様々な登場人物が繰り返し口にする問いです。『BOOK』でも語られていたこの問いは、末満さんの自問のようにも感じるし、観客──刀剣乱舞ファンダムを形成する二次創作者にも波及するように感じます。

「物語ることは、地獄」

第二部で、歴史を覆っていたもうひとつの物語が明らかになり、中世日本の不妄語戒の価値観が強調されると、現代日本SNSで末満作品が「地獄」と形容されるムーブが連想され、そのアンサーが自分事として(「物語る」ファンダムに)返ってくる。

 物語と物語に心を寄せる読者の間にあるものは愛、と帰結し、そこに若干の手癖っぽさというか末満さんが作中で人間の猥雑さを愛と語ることは繰り返されてきた感を感じなくもないのですが、わたしは信じたいと思いました。創作者でもあるわたしは、それを信じたい。戦争もパンデミックも終わっていないし、差別はなくならない。公演のチケットは安くないし、身体女性が男性キャラクターを演じることに対するネガティブな反応が少なくなかった。ひとつひとつにわたしはしっかり傷ついている。だから、現実という地獄に殉じないために、創作や観劇という手段で物語を信じようとしている。

 その上でこの矛盾源氏物語を信じたい。制作側からの介入の度合いなどを知ることはできないけれど、創造性と商業性との矛盾に悩み、立ち止まりながらもこの創造力にあふれた禺伝を完成させていたなら嬉しい、と半ば祈ってしまいます。

*1:記憶を持ったまま過去の時間軸にトリップし、過去の自分に成り代わること。