トロピカル墓場

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浪花節シェイクスピア「富美男と夕莉子」#とみゆり 感想

 配信・パッケージ化予定がない作品ということもあり、どうしても大阪公演前に感想をアーカイブしたかった……!(叶わず)本編のネタバレとパンフレットの内容に触れています。末満健一さんファン・非関西人・『ロミオとジュリエット』関連ミュージカルの観劇経験がないオタクの感想です。

 ロミオとジュリエットをベースに舞台を昭和の大阪にしてしまった作品。脚本・演出家の末満健一さんが手がける「浪花節シェイクスピア」の2作目にあたります。わたしは1作目の『羽生蓮太郎』(=ハムレット)が末満さん作品の中で一番と言ってもいいほど好きな舞台で、かなり楽しみにしていました。本編ずっとドスの効いた関西弁、ひとつも同じものはないギャグが飛びまくり、出演者による漫才形式の前説があるという、カロリー過多な大衆演劇。ステージの上に収まることのない舞台。

 わたしは前述の通りロミジュリに関連するミュージカルや戯曲に触れた経験はありませんでした。原作の翻案から末満さんが手がけているので、時代と方言を反映して台詞がどう脚色されているのかわかっている方がよりおもしろがれるとは思っていたのですが、マジでロミジュリって日本語訳小説もたくさんありすぎて(バカの感想)迷っているうちに間に合わなかった……。でもハブレンの時はハブレンの世界の中に演劇『ハムレット』がある入れ子構造で、「蓮太郎……お前とハムレットは違うよ」/「……ほら見てみい、やっぱり俺はハムレットや」「せやったら……俺もホレーシオや」というやりとりがあって(そしてそこが『羽生蓮太郎』としての作品のよさ)、そのままだというわけではなかったので大丈夫だと思っていたし、実際大丈夫でした。でも前説で「ロミオとジュリエット知らん人拍手してください!」と言われて普通に拍手したらマジ数名で、「勇気のある拍手でした」とフォローされたのでちょっと恥ずかしくなった(堂々と拍手したので)。あと紀伊国屋ホールの椅子、しばらく行っていない間に変わりました!?

 まず、対立する任侠一家の富美男と夕莉子の遺体を発見するシーンから始まります。Wikipediaでロミジュリのあらすじだけ頭に入れていたのですが、その時登場人物全員短絡的すぎるだろ……と思っていたので、やくざという設定はしっくりきました(ロミジュリファンのみなさまにおかれましては、しっくりきていいのかわからないですが……お許しください)。「ふたりを殺したんは、恋や!」という弁太郎=原作でのベンヴォーリオの台詞からふたりが見栄を切り、タイトルコール。なぜふたりが死を迎えてしまったのか、両家の家族がそばに落ちていた交換日記を遡り、ふたりの視点で語られる過去を(舞台を丸々使って演じたり、上手側で過去(記録)・下手側が現在(現実)で現在から野次を飛ばしたりしながら)明らかにしていくという、俳優・役・当事者視点・第三者視点がメビウスの輪のようになったストーリーです。富美男と夕莉子がいちゃつくシーンで夕莉子父・源蔵=原作でのキャピュレットがストップをかけたり、瓶ビールのケースに座りながら上演される過去を見ていたのがよかった。

 また、ふたりの交換日記は自殺する直前の夕莉子によって破られているため、ばらばらになったページを逆の順番で拾い集めてふたりの出会いへ向かう構成になっています。これがおもしろい!なにしろばらばらになっているので、さっき見たシーンをもう一度見てしまうこともあるのです。少しばかり経ってから「これさっき見たな」と家族たちが微妙な空気になり、もう!と痺れを切らす夕莉子母・タケ(=原作でのキャピュレット夫人)。朝ドラのようなテンポ感。

 ふたりが自死を図るシーンから始まるのですが、ここでの夕莉子の慟哭が、本当にすごいのです。悲劇ないしあらゆる物語は展開がどんどん重なって熱量が高まっていくと思うのですが、とみゆりの場合最初からクライマックスです。にもかかわらず夕莉子の演技には一生分の恋をしてきた感情が溢れて、とどめることができない。翻って富美男が服毒するシーンは結末を先にわかっているゆえに諦めとやるせなさが漂う中でギャグをぶっこんでくるので、笑ってはいけない状況で笑ってしまう感覚が普通の笑いよりライブ感があり、生(き)を感じて楽しい。それからふたりが駆け落ちを計画するシーン、夕莉子が許嫁を決められてしまうシーン(針須倫太郎=原作でのパリスが、毎回「針須んところのボンボンです☆」とカットインしてくるのがずるい)、富美男が千代蔵=原作でのティボルトを殺してしまうシーン、とどんどん過去に戻り――明らかになった事実に現実の家族たちが涙するシーンを挟みつつ――初々しく、幸せな結婚式(チューせえ!と煽られ、額にしかキスできない富美男)――「ああ、ロミオ」にあたるバルコニーのシーン――「俺と結婚してくれええ!」という富美男の絶叫――そして最もロマンチックな、出会いのシーンに至ります。もちろんそこに至るまでもアドリブがめちゃめちゃ挟まれるし、ここでギャグやって本当に大丈夫なの!?みたいなところでみんな火傷しにいく。

 夏祭りで出会い、見つめ合うふたり。夕莉子が自身の胸を刺すシーンで真っ赤に散る血液の表現として用いられた番傘が、今度は花火として舞台を彩ります。短く光って大輪の花を咲かせる花火とふたりの人生がオーバーラップしてまた泣きそうになる。顛末を知った両家の家族の流す涙が、「ふたりの銅像、わしが純金で建てたるわ」「そんなことせんでええ。私らがずっと覚えてればええんや」と悲しみだけではない感情に変化するところでさらに泣く。そしてまた富美男と夕莉子が冒頭の口上を言って、オートリバースのような構成が美しい。

 

 舞台美術も素敵でした。血の表現、夏祭りのセット、真っ赤な紙吹雪。登場人物紹介で名前が物理的にばばん!と出るのが(全然うまく伝えられないのですが、本当なんです……)アニメ的で萌えた。黒子の立ち回りをする人々が狐面を被っているのも萌え。末満さんの演出は作品を手がけるごとにどんどん素敵になっていって、毎回最新作が集大成のようなすばらしさを見せてくれます。

 

 舞台上の世界が客席まで・劇場全体の空間まで拡張し、「客席の反応まで含めて舞台」という感覚を味わったのはCOVID-19以降の観劇経験でわたしは初めてで、そのことに胸がいっぱいになった。自分語り&ブログでたびたび話題に出していることですが、COVID-19の影響による、芸術文化や現場に対する社会的な価値観の変化・チケット値上がりなど、さまざまな要因で劇場になかなか足を運べなくなって、そのことにさらに落ち込む……という負のループでかなり参っていたので、3月に観たスプステも然り、最近の観劇でそういう気持ちを取り戻しつつあるような感覚が本当に嬉しい。笑って泣いて、心が豊かになった。

 パンフレットのまえがきにて、末満さんは「今、世界は悲劇としか捉えられないことで溢れかえっている」「なぜ2022年の日本でなおシェイクスピア作品の文化的コンテクストが存在するのか」そして「その中で悲劇と喜劇の距離感を見つめなければならない」というようなことを、おもに述べていました。ラストで富美男が言う「あほなくらいがちょうどええ」の台詞。2022年の今、日本で劇場に足を運んで生で舞台を観ること。それが、少なくとも自分にとってどんな体験となったのか、このブログにて少しでもアンサーのようなものになっていたらいいと思います。