トロピカル墓場

好きなものは好きだからしょうがない!!

脱線・スプステその後

 スプステの情報が発表された時、劇中の音楽を聴くと泣いてしまうから、劇場というパブリックな空間でさえ同じことになってしまいそうで怖い、と思ったことを思い出した。今日は日付が変わる前からずっとサントラアルバムを聴いていたからだ。今の自分が感情をセーブしながらスイプの音楽を聴けるのは、慣れだと思う。慣れというとマンネリのようなネガティブなイメージがあるが、sweet poolという作品について自分を受け入れる、意義のある訓練を繰り返したことによると考えている。

 読者がマルチにアイデンティフィケーションするのはBLの典型的な楽しみ方だけど、プレイヤー自身の選択によって物語が変化していくBLゲームは、そのアイデンティフィケーションを更に混乱させている。こうやって考えるとめちゃくちゃハイコンテクストだ。蓉司の本能/理性を選択していくのは蓉司の一人称視点かつ神の視点でもあるが、具体的な会話や行動以前のはたらきである本能/理性を選択させることは、プレイヤーの蓉司の一人称視点・神の視点という意識をより深化したものにしている。

 以下、BLとスイプについて、最近急に思ったことです。とても慎重な取り扱いを要すると理解しているので、なるべく言葉を重ねていますが、それでもすみません……。

 そもそも蓉司の設定は、彼が社会的な男性の役割やそれによる特権から逸脱した存在であることが、それぞれの攻めとの対比からもわかります(フィジカルの強さ、社会性、裕福さ……)。身体男性の蓉司が自分の意志ではなく《印肉》を産み落とす現象は、明らかに月経がモチーフでしょう。蓉司はBLにおける「受け」以上に社会的な女性の役割を付与されています。

 《内なる存在》に侵食されていく《メス》の蓉司は度々のレイプを含む暴力を受け心身ともにぼろぼろになる中で哲雄と通じ合っていきますが、それは《メス》としてではなく、苦手な勉強を教えてもらったり、事故の体験を話したりといった、崎山蓉司としてのごく個人的なエピソードに由来します。

 いくつかのエンディングを経て最後にプレイ可能になるグランドENDでは、《内なる存在》に抵抗し、自らの意思で哲雄と生きたいと口にするシーンがスプステでも印象的でした。順番が前後しますが、《内なる存在》による影響が出始めた蓉司に対して、善弥が「お前もう、人間じゃねえんだよ」と言うシーンがあります。しかし蓉司は、自分の「生」の在り方を最後は自分で決めた。その宣言は銃を向けた姫谷さえも揺らがせていました。

 「普通」から疎外されても生きている。

 「恋ではなく、愛でもなく。もっとずっと、深く重い──。」という本作のコピーは、哲雄と蓉司の関係は擬似的な異性愛でも同性愛でもなく、個人の感情は代替不可能であるというあらわれだと思います。それが本能/理性という選択肢によってひどく複雑になっているところが最大の罪(いい意味で)だと思う。

 SFの手法で、現実の問題をフィクション世界で描写することでその問題を相対化するというものがあり、スイプはこの手法で語られたSFとみることも可能です。自分の心と身体を持ちながらも他者や自分の意思が介在しない現象によってコントロールされてしまう人間が、「普通」から外れることで加害を受けながらも自己の「生」の在り方を選びとる話。

 残念ながらわたしは語るに適切な言葉を持ち合わせていないし、作品を下敷きに自分の主張をしたいわけではないので、うまく〆られないまま終わりますが、この作品が2008年に発売され、2022年に舞台化されたことは、決して色褪せないと強く思っています。