トロピカル墓場

好きなものは好きだからしょうがない!!

試験に出ない「女性向け」シチュエーションボイスの楽しみ方

しれっと嘘をつくたびに死んでいった
誰もかもを認めてく偽りなど
君が壊れるために生きなくていいよ
点滅してる 幽かな光を掴み

Dancing on the edge

Dancing on the edge

  • provided courtesy of iTunes

 「Dancing of the edge」は、『CARNELIAN BLOOD』というシチュエーションCDシリーズに登場するバンドが歌っている曲で、シチュエーションCDというのはものすごくざっくり言うと作品の一人称視点を担うキャラクターに対してキャラクターが語りかける設定の音声のことだ。その一人称視点を担うキャラクター(相対するキャラクターのようにボイスは実装されていないが、作中でアクションすると語りかけをするキャラクターは反応を返す)にリスナーが感情移入する、あるいはまるで自分に話しかけられているような体で作品を聴くという楽しみ方が広く想定されている。一人称視点を担うキャラクターのことを着ぐるみのガワだと思うとイメージしやすいかもしれない。

 で、この『CARNELIAN BLOOD』という作品でのシチュエーション音声パートは、ものすごくざっくり言うと一人称視点を担うキャラクター=ヒロインが5人のバンドメンバー(全員が兄弟)の目的のために軟禁されるというストーリーである。その作風はこのブランドの特徴でもあるんだけど、そういう加害者をやりながら「君が壊れるために生きなくていいよ」っていう救世主みたいな歌詞を歌っている。その矛盾が好きだ。

 シチュエーション音声のキャラクターに感情移入して、そのキャラクターになりきったような、自分に話しかけられているような、という楽しみ方に「自分」が介在しているかと言えば、それらは流動的で曖昧だけど、あまり違いはなく、いわゆる自我は抹消して感覚は鋭敏にしているような感覚は共通していると思う。

 で、自分もそういう「自我は抹消、感覚は鋭敏」という楽しみ方をしているけど、自分がシチュエーションCDを聴く時、一人称を担うキャラクターへの感情移入が発生しつつも、「語りかけを行うキャラクターになりたい」という願望が発生していることについて考えた。……わたしはいい声になってメチャクチャしまくり、ステージの上では同じ顔で「君が壊れるために生きなくていいよ」と歌いたい。

 あるいは女性設定の一人称を担うキャラクターへ、男性として感情移入し作品をBLとして楽しんでいることもあるかもしれない。ダ・ヴィンチ・恐山氏が言う「アイドルに強く憧れる小学6年生の仮想人格「里中花蓮」になったつもりでアイドルマスターの音源を聴き、泣く」の感覚に近いと思う。設定などはなく、もっと曖昧でとりあえず「こういうことを言われてる男性がいる」とボヤ〜と妄想するくらいだけで、どちらかというと後述の「神の視点」に近い。

 男性に「なって」楽しんでいるという感覚から連想したのは、中野冬美の「やおい表現と差別――女のためのポルノグラフィーをときほぐす」の中にあった、

女でありながら男を抱きたい(しかも、抱かれる女は見たくないから、やおい少女の欲望は、抱くだけの一方通行である)、感じさせたい、つまりジェンダーの規定にそむいたやおい少女は、男になるしかない。男になって男を抱きたい。やおいはそういうファンタジーである。(『女性ライフサイクル研究』第4号、1994年、p136)

という文章と、溝口彰子の、

彼女たちが挿入者(=「攻」)のみに感情移入すると語る時、それはすでに、現実においては永遠に挿入される側(=「受」)だという立場を前提としている、ということだ。「攻」が「受」を「女」にする行為に読者がアイデンティファイし、喜びを感じるという時、前提となっているのは、彼女たちは「受」をあらかじめ内面化した存在であるということである。……「受」「攻」にそれぞれアイデンティファイするというふたつのモードに加えて、もうひとつ、物語宇宙の外側に立つ読者としての視点、いわゆる「神の視点」へのアイデンティフィケーションもある。……以上の三つのモードのうち、どれが最も強く働くかは、読者それぞれのファンタジーや物語の内容によって異なる。(溝口彰子『BL進化論 ボーイズラブが社会を動かす』2015年)

という文章だった。自分のシチュエーション音声の楽しみ方は、わたしがBL愛好家だから、「やおい少女」的な感覚が自分にインストールされているからなのかもしれないが、シナリオ通り(?)みている「神の視点」の時もあり、これら楽しみ方は時と場合による。

 あるいは、このようにも考える。「女性向け」と言われるシチュエーション音声作品は、「ドS」的な名目のもとにミソジニーをやっていたりする。そういった問題点を孕むストーリーをなんとか克服するために、ただ享受することを避けたり、家父長制の被害者としての病んだキャラクターを愛するという完全にフィクションを割り切る感覚をやっていたりするのかもしれない。一方これらはすごく自分に都合のいい考え方で、批判的な視点を持つならば、男性であることで得られる特権をファンタジーとして手にするために感情移入し、問題とまったく向き合わないようにしているのかもしれない。

 また、個人的なセクシュアリティとの関係もあるかもしれない。「女」であることや「男」であること(どちらか極端な状態)を求められるのがとにかく嫌だ。それで恋愛フィクションから逃走しているというところもある。逃走の末にシチュエーション音声と相対しているというのも変な話だけど、わたしにとってはシチュエーション音声は恋愛フィクションというより制限された環境でギミックが凝らされた物語を体験する面白さを与えてくれるもの……より、というより拮抗していて、たまに面白さに振り切る、そのギャンブル的瞬間を求めている、という感じだろうか。

 自分の問題のある「恥」の態度をインターネットに晒すだけになったかもしれないけど、わたしはそういう感じで(「女性向け」)シチュエーション音声を楽しんでいます。